カテゴリー「登山」の記事

2017年9月18日 (月)

★立山黒部アルペンルート★

★立山黒部アルペンルート★      S11Sp5110020
昨年、健康問題でキャンセルした、
室堂に行きたいとの思いが
今年は何とか無事、5月に実行出来た。     
編集に時間が掛かったがHPにアップした。Sh299111
 
http://takayuki.g.dgdg.jp/sx-0-2page.html

http://takayukikimama.web.fc2.com/H29-5HP-Tateyama/newpage1.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月24日 (金)

★狼は帰らず(8):完★

★狼は帰らず(8):完★          H28610
「森田勝の生と死」

 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫

**********************

「私の:感想:あとがき」5月25日:午後7:30

********************

森田が亡くなった年。

S55年は私にとって稀有な年となった。
ここからの6年間は私の一人舞台。

主役を演じた時期だった。

海外赴任を命じられて、責任のある立場に就いた。

私の意志でほぼ総てのProjctが動いた。
まず、
第2工場の建設。
第1工場の新鋭化・・・
加工工場の建設
等はほんの付け足しの様なものだった。
自動車用部品の加工工場の建設もあった。

私には、生産よりやはり、建設が面白い。

PLANTENGENEERとして幸せな数年だった。
私の最大の宝となる経験だった。

**************

私の登山と言うと新宿から夜行便。
3等車の長椅子の下に新聞を拡げて、先に寝てしまう。

蒸気機関車は大月、塩山、小淵沢と進む。
先には小海線がある。
大体このルートで
奥秩父に出掛けた。
後は丹沢三山。
金もなかった。きっかけもなかったので、

アルプスには行っていない。
「単独行」に惹かれて・・・雁坂峠、大菩薩峠・・・

が最高の思い出。

それでもA君とは時々同行したなあー。

・・・卒業してサラリーマンになると
すっかり忘れていたが会社で1年先輩に

一橋大学の登山部の人が居た。即尊敬した。
当時の好景気に押されて大學の登山部は

海外遠征で世間を賑わせた。
京大山岳部の西堀栄三郎や今西錦司は時の顔の様だった。

そんな中、森田の様に職を転々としながら
登ることに執念を燃やす男達もいた。

同時代にこんな生き方をした人が居た・・・

と言うだけで懐かしく、自分の青春がなつかしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月16日 (木)

★狼は帰らず(7)★

★狼は帰らず(7)★        H28610_2
「森田勝の生と死」

 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫

*********************

『あとがき』

S55年6月私はシャモニーとグリンデルワルトを訪問。

遭難から4ヶ月の頃。

昭和55年10月・・・佐瀬稔。
****************

『解説』

森田の死から18年、登山界も様変わり。

ヒマラヤ登山はレジャー化、低俗化の一途。

中高年が百名山ブームにのって、席巻する。

森田も長谷川も山に逝った。今の登山界には彼らが生きた情熱はない。

そのため却って強烈な印象を持って迫ってくる。

愛すべきアウトロー、森田勝!

「遠山成樹」

******************
もう青春時代には戻れない。
山登りも出来そうにない。
だけど・・・スイスにはもう一度行って見たい。
ツェルマット・・・
クライネシャデック、グリンデルワルト
それにシャモニーも!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

★狼は帰らず(6)★

★狼は帰らず(6)★        H28610
「森田勝の生と死」

 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫

******************

『8:グランド・ジョラス』

*石井スポーツを本拠に53年1月
「森田勝・登山技術専門学校」を開く。

*53年3月、長谷川恒男、アイガー北壁冬期単独登攀、世界初。

*「俺はグランド・ジョラスに行く」

*12月8日森田はシャモニーに着いた。1月から1ヶ月天候悪し。

*2月になって長谷川がシャモニーに到着。

*2月18日 森田はレシュ小屋を出る。ウオーカー側稜の取り付き・・・

  午前8時半、高度差1200m。

*日本人の冬期初登攀は1970年、小西・星野・植村直己・高久・堀口

 今年12月22日~1月1日頂上。凍傷で6人で21本の指を失った。

*S54年2月18日、晴天。森田はウオーカー側稜に取り付いた。

 森田はレビュファ・クラックの下に荷物を固定し、登りはじめた。

*頭上にスカイフックを掛ける・・・外れた・・・「落ちる」50m落ちた。

 意識不明4時間。

*2月19日の夜が明けた。晴れ。テラス迄の25mが生死の境目だった。

 左足と左手が全く使えない。6時間か7時間か・・・

午後遅く森田はとうとうテラスにたどり着いた。

*20日朝、救援・・・森田はヘリに乗った。

*2月25日 午前4時、長谷川はレショ小屋を出る・・・3月4日頂上。

  世界ではじめて3つの壁の冬期単独登攀者が誕生。

*グランド・ジョラスから帰った後、森田家には平和が戻ったように見えた。

*55年2月。森田が村上を連れてシャモニーに現れた。

*2月19日、晴れ。森田、村上。午前8時半。ウオーカー側稜基部到着。

 20日晴れ。レビュファ・クラックを抜け、
  氷のトラバース、氷のチムニーを抜けた。

 バルコンに達した。H286113
 21日。夕方から天候、下り坂。

 22日。夜半から猛吹雪。

 23日。雪から曇り。コルでビバーク。

 24日。三角雪田直下の岩稜に森田を確認。   H286112
 25日。丹沢山岳会の堀内のメモ。

     壁上部を見るも人影なし。
          左を見た時に雪の上に黒い点が見える。
         二人は約800m転落。即死。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月14日 (火)

★狼は帰らず(5)★

★狼は帰らず(5)★          H28610
「森田勝の生と死」

 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫

*********************

『7:エベレスト。K2』

昭和45年3月横浜、登山用具店「ジャヌー」で長谷川恒男に逢う。

47年第2次RCCエベレスト登山隊。

48年4月初旬先発隊出発、律子への熱い手紙の数々

  10月27日東南稜からの登頂は成功

  しかし朝9時森田は・・・高度8380m到達

  中断・・・南壁を断念

*49年夏・・・律子とグリンデルワルトの教会で結婚式を挙げる

*49年12月・・・K2登山、第1回打ち合わせ

*50年10月・・・パキスタン政府に登山申請

*51年1月・・・許可

*50年12月・・・森田豊 誕生

*社会人の寄せ集めの隊・・・最初のサミッター以外の登頂など
彼には意味がなかった。

 C5から下山。

 予想された通り第1次隊は失敗。第2次隊がサミッターになった。

 ここに森田が残っていれば!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月13日 (月)

★狼は帰らず(4)★

H28610★狼は帰らず(4)★ 

「森田勝の生と死」

 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫

*********************

『6:アイガー北壁』

インターラーケン、ユングフラウ(4158m)

グリンデルワルト・・・視界にはアイガー(3970m)

平和で安らかな谷・・・日本人の青春の記憶

1910年夏・・・加賀正太郎・・・ユングフラウ

1914年・・・ 辻村伊助・・・ユングフラウ;メンヒ

1921年・・・槇有恒 ・・・アイガー東山稜初登攀

1938年・・・・田口一郎、二郎・・・シュレックホルン北壁初登

  「日本の雇い主は時がたつうちに、友人となって行った」

 ホテル「ベルビュー」 エミール・シュトイリー

1965年(S40年)日本人としてはじめてマッターホルン北壁

 芳野満彦・・・「1963年7月6日。芳野満彦、
 ここに40日間滞在する。
目的はアイガーの北壁の登攀だ」

1965年8月21日の頁・・・

 「おそらく、グリンデルワルトには・・・だけど、もう生涯、
   この地もエミールの顔も
見ることはないだろう。
   わが親愛なる岳友、渡部恒明君がアイガー北壁に
逝き、

  今は何も語りたくない・・・・グリンデルワルトに眠れ。
   いつもそばにいる。
 芳野満彦」

・・・そのグリンデルワルトに森田が7,8年遅れてやって来た。

森田の前に木村憲司が現れた。昭和21年生まれ。

S44年11月29日・・・羽田を発った。

赤松は森田と言う人物がすっかり気に入ってしまった。

1月18日アイガーグレッチャーから北壁

トップは木村、セカンド岡部、森田は中央。

24日午後3時頃。木村が落ちた。数メートル下の岩に叩きつけられる。

救助隊の出動。翌日午後2時頂上。大きな借金が残った。

・・・森田は恋をしていた・・・

律子はS25年生まれ。幼稚園の先生。森田は35歳になっていた。
***********************
「やはり・・・芳野満彦も来ていたんだ!」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月12日 (日)

★狼は帰らず(3)★

★狼は帰らず(3)★       H28610
「森田勝の生と死」
 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫
*********************
『2:ホキ勝』
東京緑山岳会、谷川岳の歴史、緑の顔パス、
昭和27年 槇有恒、松方三郎、・・・マナスル登山隊・・・踏査隊
昭和31年 8125m登頂・・・登山ブーム
昭和34年 緑山岳会に森田勝入会
昭和12年19日生まれ 家庭事情で苦労の幼少期
   「ホキる」「ホキ勝」と呼ばれる
 最初のパートナー・・・「青木敏」(5歳若い)
*************
『3:衝立岩・正面壁』
森田・・・不安定な職場
緑山岳会・会長・寺田甲子男・・・
創立30周年記念・・・昭和36年
森田の変貌・・・6年後・・・44年1月 緑退会。
*******************
『4:アコンカグア』
昭和39年冬、創立25周年、東京緑山岳会・・・記念行事
*昭和38年芳野満彦、アイガー北壁に挑戦
 ヨーロッパ・アルピニスト達の著書が広く読まれる。
*アコンカグア遠征の計画・・・青木敏・中心・・・
  標高4200mBC・・・6960m登上
 
 南壁は垂直の氷・岸壁
 ・・・アコンカグアに不参加・・・報復・・・・滝沢第三スラブ
*********************
『5:烏帽子・奥壁・大氷柱』
42年2月27日夜・・・寺田甲子男の自宅に電話
「森田さんが滝沢第三スラブの初登攀」
 長老たちに出過ぎた・・・無邪気な自慢話をするので
 
「黙れ!若造!」で殴られた。
 
42年山岳同志会隊・・・マッターホルン北壁の登攀に成功
 
岩沢の心は森田から離れて行く。
 
11月下旬から12月上旬にかけて・・・
 一の倉沢・烏帽子・奥壁に高さ150m
ほどの大氷柱が出現する。
 
挑戦したが・・・断念する。
 
次のパートナー「木村憲司」
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月10日 (金)

★狼は帰らず(2)★

★狼は帰らず(2)★       H28610
「森田勝の生と死」
 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫
**************************
★S病院に入院中にメモした事や本の抜書きを記載する。
この本の舞台となった時期には

戦後登山ブームで、大學の登山チームの快挙が続々と報道された、
マナスル、K2、特に京大山岳部
の西堀栄三郎さん、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89%E9%83%8E )
や今西錦司さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E9%8C%A6%E5%8F%B8

などが話題になった。
京都大学士山岳会(Academic Alpine Club Kyoto)

http://www.aack.or.jp/htm/history.htm

この様な華やかな活動の陰で森田勝がいた。
先年スイスアルプス旅行の際に
グランド・ジョラスの写真を撮ったがその時には知らなかった。
クライネシャイデックやグリンデルワルトが
彼らの足場・滞在地、スタート台だった事を。
若い時にはピッケルとアイゼンに憧れた。
時間も実行力もなかったので単なる憧憬だったが
マスコミの影響だったかも知れない。
だけど自分に可能な範囲でこれに近づいた。
丹沢とか奥秩父とか「単独行」加藤文太郎などの影響かも知れない。
Kato2**************************
単独行 加藤文太郎:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%96%87%E5%A4%AA%E9%83%8E
****************************

少なくとも森田の過ごした場所、見た風景、
吸った空気をあの時に経験できたと懐かしむ。
やはり出掛けて良かった「アルプス」。
山に対する青年期の淡いレモンの香りが身体に染み付いている。
昨年の忘年会で逢った山女子の話で穂高・剣を思い出して
今年の「エベレスト・神々」夢枕獏・佐瀬稔と続き森田勝にたどり着いた。
そこから「室堂」に行くことになった。
これは事情で中止になったが又、又いつか実現したい。
************************
『1:「三スラ」の神話』
昭和55年2月16日。堀内、レショ小屋に向かう。
途中で森田に出会う。標高3800m、
エギュー・デュ・ミディの稜線から標高差1800m、
長さ18kmバレブランシュ、メール・ド・グラスの
大氷河、右に折れ込んでいるのがレシュ氷河。
その奥にグランド・ジョラスの北壁がある。
左はジロンデル山稜、左から4208mの
ウォーカーピーク、ウインパーピーク、
クロ・ピークと続く。
これらを絆ぐのがウォーカー稜、ウインパー稜、
中央バットレス。北壁は高度差1200m、巾1500m、
・・・
「三スラ」谷川岳、滝沢第三スラブ、
昭和42年2月25日~26日、森田勝、岩沢英太郎・・・
・・・34年に緑山岳会に入会・・・腕の良い金型職人。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月 9日 (木)

★狼は帰らず★

★狼は帰らず★    M3
「森田勝の生と死」
 ・・・佐瀬稔・・・中公文庫
森田勝・・・
映画「エベレスト」の阿部寛のモデルと言われる人。
その人を題材にした小説を読んでいる。
頭の底には阿部寛の表情のない青白い最後の顔が焼き付いている。M2
もちろん森田の顔は本の扉にあった写真で見たので
阿部寛とは違い・・・ボーットした顔だ。
と云うことはわかってる。
しかし本を読むとどうしても阿部寛の顔になる。
彼の生い立ちや家庭環境・・・それに性格が作られる環境・・・M1
山に落ち込んでゆく気持ちがよく判る。
なんだかこの辺りの話を読むだけで涙目になってくる。
丁度高校生から大学生の頃だ。
丹沢や奥秩父に出掛けていた頃の自分に
思いを転写して・・・懐かしい
あの時代に谷川岳やマナスルのニュースを憧れの様に見ていた。

当時に聞きかじった単語が多く出てくる。
関係はないが自分の青春もその辺りにあった様に思う。
***********************************
【森田勝】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%8B%9D

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月20日 (日)

★中山寺:落慶法要★

★中山寺:落慶法要★
7月19日。Sp7190003
中山寺奥の院 厄神夏まつり。
聖徳太子が創建したとされ、
安産祈願で有名な同寺。
2012年に再建された
奥の院、本堂の落慶法要、Sp7190008
開運厄除けを祈願する法要が
10時から行われた。
梅林までは時々出かけるが
奥の院までは数年上がっていない。
知人に落慶法要の行事を聞いたので
出かけた。
足が少し弱って来て、登坂の途中で元気な人達に
追い越される。
ゆっくり1時間ほどで到着した。
すでに、境内には関係者や法要参加者、一般の登山者など
多くの人が到着して時間待ちしていた。
法要が始まって、お経がお堂の外まで聞こえて来た。
心の内で厄除け祈願をして、下山した。
久しぶりの登山だったので
疲れを感じて午後は休息の1日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)